九七式中戦車 新砲塔チハ
九七式中戦車 新砲塔チハ
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タミヤ
製作・King of MIZONOKUCHI
タミヤから限定生産として発売されていた、「九七式中戦車・新砲塔チハ」です。二千円と言う価格は、初出当時としては、かなり高価なイメージが有りました。
個人的に九七式中戦車は、短砲身の方がより九七式らしい、と思っていますが、この長砲身も結構好きです。(結局、昭和陸軍なら、何でも、いいんかい! って話しになりますが…)
いつもの如く貧乏モデラーの性として、エッチングパーツやアクセサリーパーツは使っていません。
完成した時点では、自分の中で、かなり良い出来だと思っていました。しかし、塗幕が薄く、度重なる輸送により、徐々に剥げ落ちた所が目立つ様になってしまいました。
三式中戦車を塗装する時に、併せてリタッチをして、何とか見られる様にはしましたが、その為に塗装がやや寝ぼけた感じになってしまいました。
まぁ、トップコートなどを吹かなかった、自分が悪いのですが…。
キットの方もそうですが、これを作ったのはかなり前で、また作りたいところですが、次に作るとしたらファインモールドの方を買いますね、やっぱり…。
太平洋戦争を通じて、唯一、活躍らしい活躍をしたのは、8月15日を過ぎた占守島でのソ連軍との戦闘でした。
確かに、この戦車ではアメリカのM4と正面から戦う事は難しく、性能も、優秀とは言い難いです。
ただ、あくまで装備している砲の威力、相手の装甲厚さ、この二つだけ見たならば、47o砲を装備した97式中戦車でM4中戦車を撃破する方が、T-34/76でタイガーTを撃破するよりかも、可能性が高いと言うか、数字的には楽なんです。
具体的に言いますと、双方共に相手の側面を撃つのが必須ですが、T-34/76は250m、97式中戦車の47o砲は400mの距離で、撃破可能です。
ただ、T−34の場合は、捕食者に狙われる被捕食者のように、数で圧倒する事が出来ましたが、97式は、それも出来ませんでしたから…。
あくまでカタログ上の数字では、と言う事です。
せめて四式中戦車がもう少し早く出来ていれば、帝國陸軍機甲師団の屈辱の歴史にも、輝かしい一幕が有ったかも知れませんが…。
では、何故、日本は九七式中戦車を、使い続けたのでしょうか?
九七式中戦車も、第二次世界大戦直前の同世代の戦車と比較して、特別に劣っている戦車ではありません。問題は、それを終戦まで使い続けた方に有ります。
先ず、「ハルハ河戦争」の経験から、敵戦車に対しては安価な対戦車砲や歩兵の肉迫戦で対応する、と言う方向に陸軍は傾きました。
確かに少ない予算で正面装備を揃えなければならず、高価な戦車1輌よりも安価な対戦車砲10門、と言う考えも解る気がします。
ところが太平洋戦争が始まり、M4などが戦場に現れると、敵戦車に対してはこちらも戦車を出す必要が有り、対戦車戦闘に主眼を置いた戦車の必要性が叫ばれました。
しかし、必要な時には既に工場に戦車の生産ラインは無く、開発や研究も停止していました。
その為に、終戦まで九七式、あるいは改良型を使い続けたのです。
なにしろ陸軍最強部隊と言われ、「関東軍精鋭70万」と豪語していたソ連国境沿いですら、昭和20年の時点で八九式中戦車が配備されていましたから、如何に数が少なかったかを物語っています。
端的に言うのであれば、敵国もとい帝國海軍が、予算を持て行き過ぎたんですよ!
他にも、基本的に外征陸軍ですから、行った先(主に東南アジア)のインフラ事情もあり、重たい戦車を作って、運んだは良いけど、荷揚げできない、といった理由もあります。
陸軍は、米国の日本への本格的な反攻は、昭和25年頃と読んでおり、その頃までには四式や五式の数が揃うとしていました。
何とも甘い読みです、アメリカの工業力をナメてますね…。
九七式中戦車 新砲塔チハ
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タミヤ
製作・松本の幹事長
こちらは松本の幹事長さま製作の同キットで、「G−1」用のアイテムとして製作された物です。
ガルパン本編で47o砲装備の九七式は未確認でしたが、普通に考えれば57o砲装備のタイプよりかは対戦車戦闘に向いているので、「あったであろう」と言う判断です。
登場車両と言う点で見れば、レギュレーション的には通過しますし、プラッツのオフィシャル・キットですら、V号突撃砲F型はそのまま43口径の75o砲のまま発売していますし、38tにいたっては型すら違うのに平然と売っていますから、このくらいは許容範囲内だと思います。